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:2008:10/14/11:37 ++ 世界危機、歴史に学べば―スピードと協調が決め手(核心)
「幸福な家庭はみな似ているが、不幸な家庭は不幸のさまがそれぞれ違う」。よく引かれるトルストイの「アンナ・カレーニナ」の書き出しだ。
経済にもあてはまるだろうか。好調な経済はみんな似ているが、苦境の経済はそれぞれ事情が異なると。いや、米国に発し日本の生命保険まで巻き込んだ金融危機は、九〇年代にバブル崩壊を目にした日本人には経験済みの不幸である。
欧米を中心に、金融機関が短期資金を融通し合うインターバンク市場が機能停止している。一九九七年十一月に三洋証券が破綻し、コール市場で債務不履行が起きたのがきっかけで疑心暗鬼が広がり銀行間市場が凍りついたのと同じだ。
欧米で救済目的の大型銀行合併が相次いでいる。日本でも十指に余った都市銀行が現行のメガバンク・グループに集約された。
米国で七千億ドル(約七十兆円)の公的資金で不良債権買い取りや銀行に資本注入する金融安定化法が動き出した。日本でも試行錯誤を経て整理回収機構ができ、銀行に税金を投じた。
この先もおよそ見当がつく。銀行の貸し渋りで欧米の実体経済は萎縮し、不良債権額がさらに膨らみそうだ。償却すれば銀行の資本が損なわれる。公的資金の資本注入などで銀行のバランスシートが修復され、不動産価格が底打ちして、やっと経済は回復に向かうのだろう。
欧米メディアに九〇年代の日本が頻繁に登場する。ただし、ぐずぐずして「失われた十年」に陥った反面教師として。お手本にあがるのが、同じころバブルが壊れながら数年で立ち直ったスウェーデンの例だ。
当時、同国首相だったカール・ビルト外相が新聞に寄稿していた。九〇―九三年の間に国内総生産(GDP)は六%落ち、失業率が二ケタに上昇、銀行融資の損失はGDPの一二%に達し、大手七行中、五行が事実上破綻した。九二年に超党派で政治が動き、破綻銀行を監理する新組織ができ、GDPの四%の公的資金をつぎ込んだ。後に大方が戻り、納税者に損はかけなかったという。
危機を経てスウェーデン経済は強じんになり、国際競争力番付の上位グループの常連になった。日本と明暗を分けたのは、対応策の「スピード」だった。
米国のバブル崩壊は昨年夏にサブプライム問題が表面化するはるか前から予想されていた。例えば米エコノミストのスティーブン・ローチ氏は「グローバル・リバランシング(世界的な不均衡の調整)」は避けられないと繰り返していた。
ローチ氏は、消費がGDPの七割を超える米国の過剰消費・過少貯蓄体質、その帳尻の空前の経常赤字は持続不可能とした。一方に中国のような過剰貯蓄・過少消費の大経常黒字国があり、米経済の調整は世界を巻き込むと見ていた。
他方、米経済が失速しても、中国、インドなど高い成長力を持つ新興国がけん引するので、世界経済への影響は限定的という「デカップリング(非連動)論」もあったが、楽観論は消し飛んだ。新興国の株価も軒並み大幅に下げ“リカップリング(再連動)危機”の様相を見せている。
実体経済に影響しないわけがない。この先数年、世界経済は低迷を覚悟すべきだろう。国際通貨基金(IMF)が「一九三〇年代以降で最も深刻な金融危機」と認める状況を、三〇年代型の世界恐慌につなげないことが肝心だ。
二九年のウォール街の大暴落の翌年、米国はスムート・ホーリー法を成立させ輸入関税を大幅に引き上げた。英国は「ポンド・ブロック」を囲い込んだ。保護主義のまん延が、世界経済の収縮を加速した。
三〇年代の指導者らも手をこまぬいていたわけではない。三三年(昭和八年)六月、ロンドンで「世界経済会議」が開かれた。当時の報道では、サウスケンジントン地質博物館に自治領も含め六十七カ国の代表が集まり、英国王ジョージ五世が開会を宣言した。
冒頭、議長のマクドナルド英首相は、世界の失業者が三千万人を数え、国際貿易が量で四分の三、価値で三分の一に激減している実情をあげ「各国民はそれぞれの幸福のみ追求する傾向があったが、今や協調を基礎とする努力なくして、経済回復は各国自身にとっても、世界にとってもまったく不可能」と訴えた。
しかし、第一次大戦中に英仏などが米国から借りた戦費(戦債)の処理と、為替安定対策の二点で、米国と欧州諸国が対立し、会議は四十六日目に無期休会となった。その後の世界は、第二次大戦に突き進む。
世界不況という共通の不幸を前にして、主要国がそれぞれの不幸のさまの違いを言い立てて協調できずに破局に至ったのが、三〇年代の苦い教訓だった。
主要七カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議が出した行動計画は当面必要な措置を盛っている。いかに迅速に実行するか。国際的な危機対応は、まだ一歩を踏み出したばかりだ。
経済にもあてはまるだろうか。好調な経済はみんな似ているが、苦境の経済はそれぞれ事情が異なると。いや、米国に発し日本の生命保険まで巻き込んだ金融危機は、九〇年代にバブル崩壊を目にした日本人には経験済みの不幸である。
欧米を中心に、金融機関が短期資金を融通し合うインターバンク市場が機能停止している。一九九七年十一月に三洋証券が破綻し、コール市場で債務不履行が起きたのがきっかけで疑心暗鬼が広がり銀行間市場が凍りついたのと同じだ。
欧米で救済目的の大型銀行合併が相次いでいる。日本でも十指に余った都市銀行が現行のメガバンク・グループに集約された。
米国で七千億ドル(約七十兆円)の公的資金で不良債権買い取りや銀行に資本注入する金融安定化法が動き出した。日本でも試行錯誤を経て整理回収機構ができ、銀行に税金を投じた。
この先もおよそ見当がつく。銀行の貸し渋りで欧米の実体経済は萎縮し、不良債権額がさらに膨らみそうだ。償却すれば銀行の資本が損なわれる。公的資金の資本注入などで銀行のバランスシートが修復され、不動産価格が底打ちして、やっと経済は回復に向かうのだろう。
欧米メディアに九〇年代の日本が頻繁に登場する。ただし、ぐずぐずして「失われた十年」に陥った反面教師として。お手本にあがるのが、同じころバブルが壊れながら数年で立ち直ったスウェーデンの例だ。
当時、同国首相だったカール・ビルト外相が新聞に寄稿していた。九〇―九三年の間に国内総生産(GDP)は六%落ち、失業率が二ケタに上昇、銀行融資の損失はGDPの一二%に達し、大手七行中、五行が事実上破綻した。九二年に超党派で政治が動き、破綻銀行を監理する新組織ができ、GDPの四%の公的資金をつぎ込んだ。後に大方が戻り、納税者に損はかけなかったという。
危機を経てスウェーデン経済は強じんになり、国際競争力番付の上位グループの常連になった。日本と明暗を分けたのは、対応策の「スピード」だった。
米国のバブル崩壊は昨年夏にサブプライム問題が表面化するはるか前から予想されていた。例えば米エコノミストのスティーブン・ローチ氏は「グローバル・リバランシング(世界的な不均衡の調整)」は避けられないと繰り返していた。
ローチ氏は、消費がGDPの七割を超える米国の過剰消費・過少貯蓄体質、その帳尻の空前の経常赤字は持続不可能とした。一方に中国のような過剰貯蓄・過少消費の大経常黒字国があり、米経済の調整は世界を巻き込むと見ていた。
他方、米経済が失速しても、中国、インドなど高い成長力を持つ新興国がけん引するので、世界経済への影響は限定的という「デカップリング(非連動)論」もあったが、楽観論は消し飛んだ。新興国の株価も軒並み大幅に下げ“リカップリング(再連動)危機”の様相を見せている。
実体経済に影響しないわけがない。この先数年、世界経済は低迷を覚悟すべきだろう。国際通貨基金(IMF)が「一九三〇年代以降で最も深刻な金融危機」と認める状況を、三〇年代型の世界恐慌につなげないことが肝心だ。
二九年のウォール街の大暴落の翌年、米国はスムート・ホーリー法を成立させ輸入関税を大幅に引き上げた。英国は「ポンド・ブロック」を囲い込んだ。保護主義のまん延が、世界経済の収縮を加速した。
三〇年代の指導者らも手をこまぬいていたわけではない。三三年(昭和八年)六月、ロンドンで「世界経済会議」が開かれた。当時の報道では、サウスケンジントン地質博物館に自治領も含め六十七カ国の代表が集まり、英国王ジョージ五世が開会を宣言した。
冒頭、議長のマクドナルド英首相は、世界の失業者が三千万人を数え、国際貿易が量で四分の三、価値で三分の一に激減している実情をあげ「各国民はそれぞれの幸福のみ追求する傾向があったが、今や協調を基礎とする努力なくして、経済回復は各国自身にとっても、世界にとってもまったく不可能」と訴えた。
しかし、第一次大戦中に英仏などが米国から借りた戦費(戦債)の処理と、為替安定対策の二点で、米国と欧州諸国が対立し、会議は四十六日目に無期休会となった。その後の世界は、第二次大戦に突き進む。
世界不況という共通の不幸を前にして、主要国がそれぞれの不幸のさまの違いを言い立てて協調できずに破局に至ったのが、三〇年代の苦い教訓だった。
主要七カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議が出した行動計画は当面必要な措置を盛っている。いかに迅速に実行するか。国際的な危機対応は、まだ一歩を踏み出したばかりだ。
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