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ひで坊な日々

主に私の仕事と信条に関わるメディアからの備忘録と私の日常生活から少し・・・                             
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:2007:12/14/10:19  ++  【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(10)「うんと早く地雷探せる」

紛争後の平和構築に気を吐いている日本人は少なくない。

 その1人が東北大学東北アジア研究センターの佐藤源之教授(49)だ。彼が開発した地雷検知器はこれまでよりぐんと早く、確実に地雷を発見することができる。しかも使いやすい。試用段階だが、世界から早く実用化してほしいとの要望が殺到している。

 地中探査技術の専門家である佐藤教授が、地雷除去に取り組む契機になったのは2002年、東京で開催されたアフガニスタン復興支援会議だった。それを伝えるテレビは、残存する地雷で多くの犠牲者が出ていることを紹介した。佐藤教授はその姿にこう決意した。

 「日本の先端産業技術を地雷除去を通じた平和構築になんとしても生かしたい」

 地雷や不発弾の除去には大体、金属探知機が多用されている。だが、金属に反応して音を出すだけの装置では、10円硬貨や空薬莢(やっきょう)などの金属片と地雷の区別がつかない。「1000回反応があっても、本物の地雷は1個ぐらいしかない」(佐藤教授)のに、そのつど土を掘って確かめねばならず、きわめて効率が悪い。

 レーダー利用で地下水脈を探査してきた佐藤教授が思い付いたのは、レーダー波の波長と信号処理を工夫し、対象物を3次元画像にする方法だった。

 カギは最小限の研修で操作できる簡便性や、市販のパソコンで動くソフト開発であった。地雷除去に従事する現地の人々は決して技術の専門家ではないからである。

 研究室スタッフの協力で完成した地雷検知器はエイリス(ALIS、先進型地雷イメージ化システム)と名づけられた。

 今年10月、16年前の内戦の傷跡が今も残るクロアチア国内のベンコバツ市で、エイリスの実証試験が行われた。荒れ地に実物のプラスチック地雷を埋めて、検知性能を確かめる。クロアチア政府の招請で、佐藤教授のチームが現地職員らに指導して実験を重ねた。

 1・2メートルほどの掃除機に似たセンサーの重さは約1・5キロ。クロアチア人の男性職員ひとりで楽に操作できる。「ピーポー」と金属反応音が出たあたりをもう一度、ゆっくりとスキャンすると、「あったぞ」。小型パソコンのモニターに赤みをおびた丸い地雷の姿がくっきりと描かれた。

 レーダーによるスキャン作業に2分間。モニターに画像が描かれるまでの時間は15秒だ。

 「これなら、慣れればうんと早く地雷を探せる」と、クロアチア人職員たちも驚くほどの性能だった。

 金属探知機と地中レーダーを組み合わせた二重検知方式を開発したのは他に米、英2カ国だけ。だが、いずれも画像化技術はない。音源で知らせるため、検知効率の差は圧倒的だ。

 外務省などの支援で04年からアフガニスタン、エジプト、カンボジアで実証試験を重ねるたびに実用化を求める声が相次ぐ。クロアチアでは早ければ来年後半にも実用化の方向だ。

 世界に残存する地雷の総数は1億個といわれる。昨年1年間の地雷による死傷者は5751人だ。その7割以上は市民で、3割が子供という。

 佐藤教授は紛争地を訪ねるたびに地雷除去作業がいかに大変な労苦を伴うかを痛感する。

 一方で日本はインド洋でのテロとの戦いから脱落、平和構築への政府レベルの取り組みは手足が縛られた状況が続く。

 それだけに佐藤教授は「日本の平和構築への努力が失われたわけではないことを自分たちの行動を通じてぜひとも示していきたい」と決意を新たにしている。

                   ◇

 ■「自分の技術を役立たせたい」

 「専門の医療技術を人助けに生かせないか」。東大勤務の外科医の中川崇さん(32)がイラクのテロ被害者への医療支援を思い立ったのは今年春だった。

 友人の外科医から「国境なき医師団」(MSF)の存在を知り、東京・高田馬場の日本事務局を訪ねた。

 混乱が続くイラクでは、人命を救うはずの医師や看護師はもちろん、病院までテロに狙われ、これまで少なくとも2000人の医師が殺された。医療関係者の国外流出も相次ぎ、国内で満足な治療は望めない。

 MSFは2006年からイラク支援を再開、隣国ヨルダンの首都アンマンを拠点に、イラク人のテロ被害者を搬送して医療援助を行っている。中川さんは5月から1カ月間、アンマン市内の病院に派遣され、次々に送られてくる患者22人の治療にあたった。

 「患者の多くはX線写真を撮ると体中に白い斑点(爆弾の破片やがれきなど)が散っていた。日本では見たこともない強烈な写真だった」と中川さん。隣国で起きている惨状に衝撃を受けた。

 爆弾で右あごの骨がふっとび、顔の構造が崩れた女児は話もできず、食事もできない。右目を失った少女。上半身やけどで皮膚がひきつり、両腕が上がらなくなった母親。右足の下半分の傷口がパックリと割れたままの男性-。手術台で向き合う患者たちの今後を思うと、心が痛んだ。

 中川さんは徳島県の出身。東大医学部を卒業、形成外科医として複数の病院で経験を積んだ。

 「外科医は一種の職人。自分の技術が人の役に立つのが一番うれしい」。専門性の高い外傷治療に携わってきた中川さんにとって、平和な日本とは違うイラクの重傷患者を助けることのやりがいを語った。

 MSFは武力紛争や貧困などで苦しむ人々を救うために1971年に創設され、日本での活動開始は92年から。国内の登録者(物資調達など非医療従事者を含む)は現在約200人。03年から、それまでフランスで行っていた派遣候補者の面接を国内で行うよう改め、派遣者数が約5倍に急増した。06年には50人が派遣されている。

 「現地の仕事は地味で泥臭い。ヒーローになれるような仕事じゃない」

 そう話すのは、武力衝突が続くスーダンなどで02年から3度にわたって活動した福岡市の内科勤務医、岡本文宏さん(45)だ。

 手術が多い外科医と違い、内科医は診療所建設のための人集めや薬の手配など医療以外の仕事も多い。それでも「子供の命を救うことなどを通じて、自分の力が役に立つのを実感できた。医療の原点に近づけた感じがする」と話す。

 今年4~10月にウガンダで物資調達に携わった埼玉県のコンピューターエンジニア、笠原修さん(29)は「困っている人を助けることは非常にやりがいがある。現地では雑用も多いが、私はよく飲み会で幹事を任されるキャラなので、苦にならなかった」と屈託なく笑う。

 外科医の中川さんはアンマンでの1カ月をこう回想する。「テロ被害者の総数からみれば、私が救えたのは一部にすぎない。でも、帰国間際に患者たちから『ナカガワ、今度いつ来てくれるか』と聞かれたのが心に残っている。機会があればまた行きたい」(高畑昭男、鵜野光博)

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