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ひで坊な日々

主に私の仕事と信条に関わるメディアからの備忘録と私の日常生活から少し・・・                             
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:2007:12/17/09:50  ++  【正論】「ネット」と新聞 東京大学教授・坂村健 新聞界の常識が崩れ去った

■デジタル化で「形式」すべて自由に

 ≪従来の枠組みバラバラに≫

 産経新聞がインターネット上に新しいニュースサイトを立ち上げ、朝日、読売、日経の3社が販売店網の提携とネット配信の共同化を発表した。いま「新聞の未来」が大きく変わろうとしている。

 この問題を語ろうとするとき気をつけなければならないのは、この主題が1つの主題ではなくなってしまった、ということだ。それを無視しあくまで一体として情緒的議論をすれば、混乱するだけで建設的な議論にはならない。

 「新聞の未来」はいま、新聞「記者」の未来、新聞「社」の未来、新聞「レイアウト」の未来、新聞「広告」の未来、新聞「紙」の未来、新聞「販売店」の未来、新聞「折り込みチラシ」の未来--ざっと考えてもこれだけの未来に分裂してしまった。

 そして、この分裂を招いたのが社会のデジタル化・ネットワーク化である。

 従来の社会が物理的だった時代、新聞は紙に印刷し配達するしかなかった。

 新聞が「紙」だからこそ、多くの「記者」と日単位の印刷のための高速輪転機という資本を抱えた「社」と、配達のために「販売店」が必要だった。また「紙」を前提とした長年の工夫が、現在の見出しと本文配置の妙で短時間のうちに読める「レイアウト」を確立し、限られた面積だからこそ新聞「広告」は高い広告料を取れた。新聞と一緒に配るからこそ「チラシ」は特権的な配布物であり、「販売店」はそれで潤った。

 ≪文字情報の読者は残るが…≫

 しかし、社会のデジタル化・ネットワーク化により状況は変わる。大量の文字ニュースを秒単位の新鮮さで、しかも必要に応じて地球の裏側からでも配布も取り寄せもできる時代になった。しかも、基本的にコストは限りなくゼロに近い。

 この変化により、文字ニュースは「紙」の縛りを離れ、いままで「新聞」という名のもとに運命共同体だったさまざまな要素を、バラバラに運命を語れるものにしてしまった。「新聞の未来」について私に確実に言えることは「新聞」という概念がバラバラになること。文字ニュースの「読者」は存在しつづける。その2つだけだ。

 世界中にちらばったフリーのルポライターのような記者が独立して記事を書く。それを各種検索エンジンが収集し読者の関心属性にあわせて見出しの大きさやレイアウトを個別調整し、大判の電子ペーパーに自動配信。読者の関心を引いた率に応じて、記事の原稿料が自動的に分けられ記者の収入となる--そういう過激な「新聞の未来」にも十分な可能性がある。

 この未来には、新聞「紙」は、タブロイド紙大の柔らかで極めて軽く電子的に書き換え可能な電子ペーパーとして進化し、新聞「記者」は立場を変え、新聞「レイアウト」は生き残るが、新聞「社」も新聞「販売店」もいない。

 他にも、最近はやりの読者がそのままニュース発信者となるモデルで、それを集めて選別し編集する機関として新聞「社」が変化し、プロの「記者」がいなくなる未来も考えられる。

 ≪技術より社会変える勇気≫

 ここで未来を決めるのは実は技術ではない。技術が未来を決めるなら、技術屋が言ったとおりに未来はなるだろう。しかし、実際はそんなことはない。私が言えるのはせいぜい先に上げたようなさまざまな未来の可能性だけだ。そのどれが実現するかはわからない。

 社会のデジタル化・ネットワーク化が引き起こしたのは、実は本来は必要がないのに事業者・社会プロセス・形式・ニーズといったものにはめられた枷(かせ)からの単なる「自由」であって、そこに方向性はないからだ。

 その「自由」を、どう生かし「未来」をデザインするか。それを決めるのは、技術ではなくあくまでも社会だ。おそらく、その制度設計の最大課題となるのは著作権という社会制度の再設計だろう。

 そのとき、社会系の学問の門外漢として私が危惧(きぐ)するのは日本の技術力ではない。「枠のない自由」に挑戦して新しい社会を再構築することに、安定志向のわれわれ日本人は不得意ではないかということだ。

 情報通信技術がらみの分野で日本が世界でイニシアチブを取れない歯がゆさは前から感じていることだ。「新聞」のような伝統的な社会要素すら解体されつつある今、すべての社会分野の再構築で日本が取り残される--そんなことにならないでほしい。未来を決めるのは技術力ではない。それは社会を変える勇気なのである。

(さかむら けん)

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