(2007/08/20 05:17)
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:2007:08/20/11:23 ++ 【正論】日本財団会長・笹川陽平 能力こそ誰もが納得する評価基準
≪目立つ留学生の活躍≫
久しぶりにテレビでウィンブルドン選手権の中継を見た。テニスの最高峰に位置するこの大会は久しく英国選手の優勝がなく、外国人選手が席巻する現状を「ウィンブルドン現象」と揶揄(やゆ)する向きもあるが、権威と人気にいささかの陰りもないようだ。
スポーツの世界は能力が唯一の評価の基準である。ウィンブルドン大会も、それ以外に一切の垣根を設けず、力ある選手に門戸を開放し、いち早くグローバル化を実現してきた点に成功の秘訣(ひけつ)がある。
これに対し日本の高体連(全国高等学校体育連盟)は来年から、全国高校駅伝の最長区間である1区で外国人留学生を走らせないという。似たような制限は、全日本実業団対抗駅伝や正月の風物詩・箱根駅伝にもある。
留学を認めるということは、海外の優秀な若者に学問、スポーツの門戸を開くということである。海外に留学した日本人学生が能力とは別の制限の壁で競技会に出場できなかったケースなど聞いたことがない。まして「外国人枠」なる奇妙な考えは日本だけであろう。
確かに駅伝や長距離でのアフリカ系黒人選手の強さは際立っている。彼らにとって日本留学はオリンピック選手、国際的ランナーに飛躍するチャンスであり、留学生上位の現状は彼らに門戸を開いた時点で、予想された姿である。
一部高校が彼らを切り札に上位進出を目指し、知名度と志願者増を図るのも彼らの強さを前提とした話であり、駅伝に限らずラグビーや卓球、サッカー、バスケットボールでも同様の留学生の活躍が目立つ。
にもかかわらず彼らが強すぎるから日本選手が無力感にとらわれ成長しないとか、早々と勝負が決まるため面白味を欠き視聴率が伸びないといった理由で、外国人枠を設け制限・排除するのは、日本側が積極的に留学生を招いてきた経過からみてあまりに身勝手。人種差別以外のなにものでもなく、国際的にも到底受け入れられる議論ではない。
近年のスポーツ界は、多くの人がアマチュアの顔をしながら、さまざまな援助を受けるのが世界的な常識である。「アマチュアの祭典」といわれたオリンピックも1974年には憲章から「アマチュア」の言葉を消した。
≪美化されるアマチュア≫
しかし、日本ではアマチュアリズムを美化し尊ぶ傾向が現在も強い。実態は死語に近いのに、なおアマチュアの言葉が持つ美しさにこだわるのは、過度の建前論を生むだけでなく、スポーツで身を立てようとする青年の夢を、大人のメンツで踏みにじる結果ともなる。
特待生制度をめぐって迷走する高校野球はその典型である。特待生制度は他の競技と同様、高校野球の現場に広く浸透しており、高野連(日本高校野球連盟)が厳格なアマチュアリズムを謳った日本学生野球憲章にこだわるあまり、こうした実態を無視すれば一層、混乱が増すことになろう。
スポーツの世界には、現実を冷静に見据えた分かりやすい基準と誰もが納得する単純で明快な論理が何よりも必要である。アマチュアの世界もプロ同様、能力を唯一の評価基準として確立することが望ましい。米・大リーグに世界の有能な選手が集まるのも「移民の国」というより、能力がすべてという分かりやすさが各国の選手を引き付けるからだ。
≪「井の中の蛙」的議論≫
アマチュアの世界だからといって、外国人の参加は1人だとか、走る区間も指定するとかは誠に理不尽で姑息(こそく)である。彼らと競い合って自らのレベルアップを目指すことこそスポーツ本来の姿である。
グローバリゼーションの時代の中で、日本のスポーツ界だけが、強い者が勝つという単純な論理を機能できないのなら、もはやファンはついてこない。
政府の教育再生会議は日本の大学、大学院で学ぶ留学生数を現在の約10万人から2025年には100万人に増やす目標を掲げた。外国人留学生とともに学び競い合うことで、日本人学生に国際化時代にふさわしい力を身に付けさせるのが狙いだ。
日本は2016年オリンピックの東京招致を目指し、「駅伝」はいまや国際語になっている。そうした中で国内の事情だけを踏まえた「井の中の蛙」的議論で外国人留学生の出場を制限することが、差別に鋭敏な国際社会にどのような誤解とマイナス効果を生むか、世界のスポーツの現状と方向性を見極め、あらためて議論する必要があるのではないか-。(ささかわ ようへい)
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