(2007/09/26
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:2007:09/26/10:23 ++ 【正論】新内閣へ 東洋学園大学准教授 櫻田淳 「時宜を得た統治」を望む
≪新総理の登場を歓迎する≫
福田康夫新総理が登場した。筆者は、福田新総理の登場を歓迎する。とはいえ筆者は、先刻の自民総裁際選挙で麻生太郎前幹事長が総裁に選出されていれば「麻生新総理登場を歓迎する」と書いたはずである。
要するに、必要なことが必要な時機に執り行われる「統治」さえできていれば、それが誰の手で行われるかは、二の次、三の次である。特定の政治家に対して過剰な期待と警戒のいずれかを寄せる趣旨の政治評論は、それ自体としてはあまり質の高いものではない。
振り返れば、安倍晋三前総理には、その執政初期には「保守・右翼」層からの「過剰期待」と「進歩・左翼」層からの「過剰警戒」とが向けられ、その執政末期には「過剰期待」の裏返しとしての「落胆」の気分が「保守・右翼」層に漂っていたようである。安倍前総理執政下の対外政策には、中韓両国との関係修復、地球環境保護に関する国際的な議論の主導、対印提携の加速といった顕著な業績が挙げられるけれども、「靖国」や「拉致」といった案件では「保守・右翼」層の期待に沿う結果を挙げるに至らなかった。それが「保守・右翼」層の、半ば身勝手な「落胆」を招いた理由である。
≪「必要な選択」と優先順位≫
しかし、自ら政治の営みに手を染めているわけでもない学者やジャーナリストのような知識層が、自らの「理念」「思想」「発想」を寸分も違わず政治家に実現してもらえると期待するのは、知識層の「傲慢(ごうまん)」を示すものでしかない。そして知識層が手掛けられるのは、その折々の政治情勢に即して「必要な選択」を説くことでしかない。
「保守」「進歩」などという粗雑な仕分けからは、そうした「必要な選択」に関する議論が抜け落ちる。安倍前総理が標榜(ひょうぼう)した「戦後レジーム」見直しに関連する諸々の施策にしても、それは中長期の観点では「必要な選択」に含まれたとしても、当座の観点でも「必要な選択」であったとは限らない。安倍前総理の執政の頓挫には、その「必要な選択」の優先順位の設定を誤ったという事情が反映されていよう。
その点、小泉純一郎という政治指導者は、21世紀最初の5年という時代の要請には見事に合致した執政を行った。「冷戦の終結」に伴う国際政治変動の最中で経済失速に苦しんだ1990年代の歳月の後では、小泉元総理が主導した「構造改革」路線は、経済復調を図る上では「必要な選択」であった。
現在「構造改革」路線を批判する人々ですらも、経済低迷に呻吟(しんぎん)した1990年代の情勢がよかったと唱えることはしないはずである。また、小泉執政期における対外政策上の業績の最たるものは「ブッシュ・コイズミ同盟」と称された日米関係の「蜜月」の実現であるけれども、それもまた「9・11」テロ事件やイラク戦争に際して「必要な選択」を適切に積み重ねた結果であった。
≪抽象的な言辞ではなくて≫
故に福田新総理に期待されることもまた、現下の日本の情勢に即した「必要な選択」を示し続けることでしかない。過去1年、安倍前総理執政下には、年金記録の杜撰(ずさん)な管理、閣僚の度重なる失言や辞任といったように、世の人々の「不安」を増幅させるような出来事が相次いだ。参議院選挙敗北に示される自民党の党勢失速には「私の年金は大丈夫か」とか「この内閣で大丈夫か」とかといった国民各層の「不安」が反映されている。
当面、福田新総理の執政の課題は、こうした「不安」の一つ一つを取り除くことに集約されるであろう。無論そこでは、安倍前総理が標榜した「美しい国の実現」や「戦後レジームからの脱却」といった抽象的な言辞ではなく、その「必要な選択」を示し続ける具体的な営みがあるのみである。ヘンリー・A・キッシンジャーが示したように、「最悪事態」に備えるのではなく、何らかの抽象的な「ヴィジョン」を実現しようとするのは、政治家に要請される姿勢とは別のものであるということは、この際、強調するに値しよう。
政治の世界では、それぞれの政治家にとっては「自分が手掛けたい政策」と「時代に要請された政策」は、必ずしも重なり合わない。この2つの種類の政策が相克した折に優先されるべきは「時代に要請された政策」であるのは、疑いをいれまい。筆者が福田新総理に執政の留意点として何かを献言するとすれば、それは「時代の要請」が何であるかを見誤らないということの一事である。
(さくらだ じゅん)
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