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:2011:05/09/09:49 ++ 国策民営でゆがむ安全―原発の法規制見直しの時(核心)
発電機がひとつだけ生き残った。
東京電力の福島第1原子力発電所には13台の非常用発電機があった。12台が海水をかぶって壊れた。運よく冠水を免れていたとしても、発電機を冷やす海水をくみ上げるポンプが津波で流されていたので、発電機はすぐに過熱し動かせなかっただろう。
生き残った発電機は海水冷却が不要な空冷式だった。この1台は6号機の原子炉建屋内にあって水もかぶらず、すぐに使えた。おかげで5、6号機は急場の冷却を続けられた。もしこの1台も水冷式だったら、6基すべての原子炉が冷やせず現状を上回る深刻な事態に陥っていた。
空冷式が存在したのは偶然ではない。原子炉の生命線ともいえる冷却機能がいっぺんに失われる事態を考え設備を改造した結果だ。しかし改造は徹底したものではなかった。
核燃料棒が壊れ高濃度の放射性物質が原子炉から漏れるような事態を、原子力の世界では「過酷事故」と呼ぶ。
1986年の旧ソ連・チェルノブイリ事故を契機に過酷事故への備えの重要性が認識され、欧州の原発は対策を講じた。放射性物質を取り除くフィルター付きの圧力逃がし弁は一例だ。
原子炉格納容器の中の圧力が異常に高まった時、容器が壊れるのを防ぐために圧力を抜く。この操作(ベント)をする際に内部の蒸気がフィルターを通って流れ出るように改造した。周辺に放射性物質をばらまく心配が減り、ためらいなくベントができる。
日本では原子力安全委員会が92年に過酷事故に備えるよう勧告を出した。しかし法令による強制的な改造などは求めず、規制当局の行政指導や事業者の自主対策にゆだねた。「第一義的には事業者の責任で」というわけだ。
このため日本の原子力安全規制は、過酷事故に対応する明確な法規制がない世界でも特異な形になった。国際原子力機関(IAEA)は改善を求めていた。
なぜそうなったのか。直接的には立地対策が理由だ。炉心溶融などの過酷事故は起きないと地元に説明してきた手前、おおっぴらには対策を施せない。原子力に反対する勢力からつけこまれるのでやりにくい。電力会社や政府が口にした「安全神話」が、必要な対策に取り組む意欲をそぐ自縄自縛があった。
過酷事故だけではない。活断層を探して耐震安全性を高める安全審査も、立地の決定的な妨げにならない水準にとどまった。
これらが事業者と政府の規制当局の談合の結果だと断じる証拠は持ち合わせていない。しかし結果として存在する規制体系をみると、立地の許認可にかかわる規制や審査のハードルは事業者が飛び越えられる高さにとどめ、その上に事業者の自主努力で対策を積み増す形が定着してきた。
空冷式発電機もそんな「積み増し」の一部だ。過酷事故は起きないと言いつつ、各原発には過酷事故対応のマニュアルがちゃんとあるが、それは法によらず行政指導に事業者がこたえた結果だ。
世の中には過度の規制を遠ざけ事業者の裁量を重んじることが望ましい場合も多いが、原子力安全にはあてはまらない。「第一義的に事業者の責任」とした不徹底が危機を招いた。
事業者と規制当局のもたれあい的体質は、「石油危機後に原子力を国策民営で強力に推進し始めてからだ」と一橋大学の橘川武郎教授は言う。
脱石油を目指し、国をあげて原発の新増設を進めた。立地難を解消するため、電源開発促進税法など電源3法の交付金で制度的に原発周辺自治体にお金が流れるようにした。
電力自由化をめぐり政府と電力業界が対立したときも、原子力は産官一体だった。むしろ原子力の一体推進ゆえに自由化論議の矛先が鈍った感すらある。
国策民営である限り、原子力安全・保安院を経済産業省から分離し天下りをなくしても、もたれあいはなくならないだろう。
既成概念にとらわれない幅広い議論が、原発とエネルギー供給体制をめぐりこれから必要になる。「例えば各電力会社から原発を切り離し、原子力専業の日本原子力発電(本社東京)の下で全原発を運営する体制なら、9電力と政府は緊張感のある健全な関係に戻れる」と橘川教授は提案する。
積年のゆがみを正すのに、ここは大事な時だ。
菅直人首相は中部電力に対し浜岡原発の全面停止を求めた。東海地震の震源域に立地するリスクを重視したのはわかる。しかし反論を恐れたかのような独断専行は合点が行かない。正々堂々と議論を詰めて判断を下すべきだった。
2年後に防潮堤が完成すれば安心なのか。東海地震に比べて確率が低いものの、活断層に近い他の原発をどう扱うのか。「想定外」に備えるには多重で多様な対策が要るが、リスクはなくならない。ゼロリスクでないと受け入れないというなら、それは安全神話の裏返しにすぎない。
豊かで安定した電力と引き換えの原発リスク。福島第1原発の事故は、すべての日本人が直視しなければならない深いジレンマをあらわにした。過度の感情論も神話も排した冷静な議論がいま必要だ。
東京電力の福島第1原子力発電所には13台の非常用発電機があった。12台が海水をかぶって壊れた。運よく冠水を免れていたとしても、発電機を冷やす海水をくみ上げるポンプが津波で流されていたので、発電機はすぐに過熱し動かせなかっただろう。
生き残った発電機は海水冷却が不要な空冷式だった。この1台は6号機の原子炉建屋内にあって水もかぶらず、すぐに使えた。おかげで5、6号機は急場の冷却を続けられた。もしこの1台も水冷式だったら、6基すべての原子炉が冷やせず現状を上回る深刻な事態に陥っていた。
空冷式が存在したのは偶然ではない。原子炉の生命線ともいえる冷却機能がいっぺんに失われる事態を考え設備を改造した結果だ。しかし改造は徹底したものではなかった。
核燃料棒が壊れ高濃度の放射性物質が原子炉から漏れるような事態を、原子力の世界では「過酷事故」と呼ぶ。
1986年の旧ソ連・チェルノブイリ事故を契機に過酷事故への備えの重要性が認識され、欧州の原発は対策を講じた。放射性物質を取り除くフィルター付きの圧力逃がし弁は一例だ。
原子炉格納容器の中の圧力が異常に高まった時、容器が壊れるのを防ぐために圧力を抜く。この操作(ベント)をする際に内部の蒸気がフィルターを通って流れ出るように改造した。周辺に放射性物質をばらまく心配が減り、ためらいなくベントができる。
日本では原子力安全委員会が92年に過酷事故に備えるよう勧告を出した。しかし法令による強制的な改造などは求めず、規制当局の行政指導や事業者の自主対策にゆだねた。「第一義的には事業者の責任で」というわけだ。
このため日本の原子力安全規制は、過酷事故に対応する明確な法規制がない世界でも特異な形になった。国際原子力機関(IAEA)は改善を求めていた。
なぜそうなったのか。直接的には立地対策が理由だ。炉心溶融などの過酷事故は起きないと地元に説明してきた手前、おおっぴらには対策を施せない。原子力に反対する勢力からつけこまれるのでやりにくい。電力会社や政府が口にした「安全神話」が、必要な対策に取り組む意欲をそぐ自縄自縛があった。
過酷事故だけではない。活断層を探して耐震安全性を高める安全審査も、立地の決定的な妨げにならない水準にとどまった。
これらが事業者と政府の規制当局の談合の結果だと断じる証拠は持ち合わせていない。しかし結果として存在する規制体系をみると、立地の許認可にかかわる規制や審査のハードルは事業者が飛び越えられる高さにとどめ、その上に事業者の自主努力で対策を積み増す形が定着してきた。
空冷式発電機もそんな「積み増し」の一部だ。過酷事故は起きないと言いつつ、各原発には過酷事故対応のマニュアルがちゃんとあるが、それは法によらず行政指導に事業者がこたえた結果だ。
世の中には過度の規制を遠ざけ事業者の裁量を重んじることが望ましい場合も多いが、原子力安全にはあてはまらない。「第一義的に事業者の責任」とした不徹底が危機を招いた。
事業者と規制当局のもたれあい的体質は、「石油危機後に原子力を国策民営で強力に推進し始めてからだ」と一橋大学の橘川武郎教授は言う。
脱石油を目指し、国をあげて原発の新増設を進めた。立地難を解消するため、電源開発促進税法など電源3法の交付金で制度的に原発周辺自治体にお金が流れるようにした。
電力自由化をめぐり政府と電力業界が対立したときも、原子力は産官一体だった。むしろ原子力の一体推進ゆえに自由化論議の矛先が鈍った感すらある。
国策民営である限り、原子力安全・保安院を経済産業省から分離し天下りをなくしても、もたれあいはなくならないだろう。
既成概念にとらわれない幅広い議論が、原発とエネルギー供給体制をめぐりこれから必要になる。「例えば各電力会社から原発を切り離し、原子力専業の日本原子力発電(本社東京)の下で全原発を運営する体制なら、9電力と政府は緊張感のある健全な関係に戻れる」と橘川教授は提案する。
積年のゆがみを正すのに、ここは大事な時だ。
菅直人首相は中部電力に対し浜岡原発の全面停止を求めた。東海地震の震源域に立地するリスクを重視したのはわかる。しかし反論を恐れたかのような独断専行は合点が行かない。正々堂々と議論を詰めて判断を下すべきだった。
2年後に防潮堤が完成すれば安心なのか。東海地震に比べて確率が低いものの、活断層に近い他の原発をどう扱うのか。「想定外」に備えるには多重で多様な対策が要るが、リスクはなくならない。ゼロリスクでないと受け入れないというなら、それは安全神話の裏返しにすぎない。
豊かで安定した電力と引き換えの原発リスク。福島第1原発の事故は、すべての日本人が直視しなければならない深いジレンマをあらわにした。過度の感情論も神話も排した冷静な議論がいま必要だ。
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